田中館 愛橘 たなかだて あいきつ  1856,9,18 岩手県福岡町生  1952,5,21 東京没
 物理学者・理博
生家は南部藩軍師で9歳から武術を学んだ。慶応英語学校、外国語学校英語科を経て1878年東大物理学科入学、メンデンホールやユーイングらに学び1882年卒業。翌年東大助教授。1889年グラスゴー大学に留学、翌年ベルリン大学に転学し、1891年東大教授となった。188年に東京と富士山頂の重力を測定したのをはじめ、1887年までに日本各地及び朝鮮の南半部の重力測定を成しとげ、1891年の濃尾大地震に際しては断層を発見した。1894年万国側地学協会委員となり、1898年万国測地学協会総会に出席。以後1935年(79歳)までに欧米出張22回、各種国際会議への出席68回におよんだ。1917年に60歳の定年で東大を退官した。航空条約締結のため外務省嘱託となり、パリ平和会議に出席。1925年には貴族院議員に選出された。1935年の最後の洋行ではロンドンの国際音声学会議、パリの天文学会、ブリュッセルの議員会議、ワルシャワの気象会議と精力的にまわった。日本の重力、地磁気、地震、測地、度量衡、航空など諸方面の学術の創始者であり、学術的外交官としての功績は偉大である。1944年文化勲章受賞。日本式ローマ字論者としても有名。第2次大戦末期、90歳近くなって母校一校に出掛け学生を励ますなど、気楽にどこへでも出掛け人々の敬愛を受けた。ベルリンでシベリア鉄道に飛び乗った逸話もある。物理学の先達で2歳年長の山川健次郎が国内の汽車に乗るのにも一時間前に駅に着いていたのとは好対照である。
櫻井錠二との関連
1882年東大物理学科卒業・1891年東大教授・
標準式(ヘボン式)ローマ字の提唱者である櫻井錠二とは大論争を繰り広げている。いつもは穏やかな錠二であるが、田中館博士とは電話で大声でやり取りしているのを家族が何度か耳にしていたと聞く。昭和14年櫻井錠二の葬儀委員長を務められた。
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